うつわについて

器は食べる道具です。

器を手に包み、ごはんを食べる。

毎日の暮らしのなかで、土から、手から伝わるものがあります。

家でごはんを丁寧に食べる。そのかけがえのない時間をともに暮らす器は、 素朴であたたかく、しみじみと、こころが満たされるものがいい。

使うほどに味わいが増し、愛する気持ちが深くなる。

うつわ祥見の展覧会では、そんな器を伝えています。

展覧会では、もっと器を愛するための、器の使い方
器と暮らす楽しさを伝える話会をしてます。




1.出会いを大切に

作家ものの器はひとつとして同じものはありません。

同じ「くみ出し茶碗」でも、大きさ、釉薬のかかり具合、手にもった感覚がすべて違うのです。

器を選ぶときは、両手でつつむように器を持って
その「手触り」を確かめ、自分の手になじむものをお選びください。

作家ものの器は窯を焚いた日の気温や火の具合などによって、同じ釉薬の器でも、表情がちがってきます。

極端なようですが、その器とは2度と出会えない、と思っていたほうが実際は正しいのです。

だからこそ、気に入った器と出会ったときのうれしさは格別なのではないでしょうか。

作家ものの器を持つ喜びは、そんな出会いから始まっています。

2.作家の名前

「作家さんの名前にくわしくないのです」という声をよく耳にします。

それでよいのではないかと思っています。

器そのものを深く「感じる」こと。大切なのは、こころで器を見ることです。けれど一方で同時代に生きる作り手とともに、「生きていく」ことはこの上ない喜びです。骨董のものは、いくらよい器でも、作り手と、同じように呼吸をすることはできません。

日々生きている生身の人間ですからさまざまな思いで器を作ります。 そのことがおもしろいのです。

それを見守ること、今度の作品はどんなだろう・・・どんな焼きだろう、かたちだろう・・・と思うことは、
器の作り手と自分の距離を縮め、より作家ものの器と付き合う喜びとなります。

そして、その同時代性=ライブ感こそが、器を使う楽しみなのです。

3. 好きな作家と出会ったら

好きな作家と出会ったら、次はぜひ作家の個展へ出かけてみてください。

作り手にとっては、個展は自分の作り手としての表現を高める場であり、 自分の作品を愛してくれる使い手との出会いの場です。

毎年や隔年で、同じお店で個展をひらく作家も多く、気になる作家の個展情報は、現在でしたらインターネットで検索することも可能です。

作家の在店の日に足を運べば直接作家自身から器のことを聞くことも可能です。

ぜび 作家の個展へ足をお運びになってください。

きっと、器の世界が広がると思います。

4. 器はそばにおいて

作家ものの器は、買い求めてからしばらくは食器棚にしまわずに、いつも目にするところへ置いてみてください。きっと、器がなにかを話かけてくれるはずです。
その声に耳をすませてほしい、と思います。器はしまいこまずに、どんどん使うことです。

「もったいないので、盆正月にとってあります」などと聞くと、「なんてもったいない」と思います。
よそいきの服がいつまでも肌に馴染まないようにそれでは器も「打ち解けて」くれません。

器は日々使うことで、育ってきます。
土がしまり、しっかりと頼もしくなり、ますます使うのが楽しみになります。器たちと過ごす日々は、誰にとってもかけがえなのない時間です。器と話をするように、日々、器を使ってください。

かつて、和食器には、さまざまな「決まりごと」がありましたが、それを守ることにとらわれてしまっては、のびやかではありません。 使い方もとらわれずに、自由に楽しく・・・。
思ってもみなかった使い方で、器がいきいきすることもあり、そんなときは一日中うれしい気持ちが続いたりします。

5. 器の気持ちになって

器と付き合う、という言い方をします。
はじめは相手のことはわからない、と思って付き合っていった方が 永く愛せる関係に育つこともあるものです。
器も同じです。はじめは、お料理ひとつのせるにも、直接ではなく、 グリーンを敷いたり、油ものは避けたり。
とても気を遣うのです。

でも、だんだん、器と付き合っていき、気心が知れてくると、 「もうだいじょうぶ」というサインがわかるものです。
「土がしまってくる」とでも言うのでしょうか。

このあたりは、器の使う頻度やしまい方にもよるので個々の事情になるのですが、 それでも大切なのは、器の気持ちになってみるということなのではないか・・・と思います。
作り手が丁寧に作った器です。ことさら神経質にしなくてもよいのです。
ただ、その様子を見て、土のあたたかさや、手触りを確かめながら、 ひとつひとつの器との付き合い方を楽しんでいただけたらと思います。


粉引

器の名前は、その手法で呼ばれることが多いのです。
たとえば、粉引はこひき、あるいはこびきと呼ばれます。
赤い土に白化粧土を施して、透明な釉薬をかけて焼いたものをそう呼びます。
一説には、粉が吹いたように見えるから「粉吹き」とも言われています。
一口に「粉引」と言っても、もともとの土の成分、化粧土や透明釉の配合、そして焼成方法によって、ひとつひとつの器には個性が出ます。それらはずいぶん違います。
「粉引」という名前でひとくくりにできないほどです。
磁器の硬質な白さとは違って、乳白色であたたかみがあるので、粉引が好きな方も多いことでしょう。粉引は使い続けていくと、雨漏りと呼ばれるシミができることがありますが、 それは汚れではなく、「趣き」や「表情」として尊ばれるものです。少しずつ少しずつ、時が器に与える変化なのです。器は使われて、はじめの頃にはなかった表情を見せてくれます。その変化を見守り、景色として楽しむ。器はこころで付き合うものなのです。

南蛮焼締

器には「うわぐすり」がかかっています。
それは土でできた器を使いやすく、水漏れを防いだり強くするために
施しているもので「釉薬」と呼ばれます。
釉薬には実にさまざまな種類があり、
その釉薬の成分によって、同じ土でも、焼き上がりがまったく変わるのです。
一方、焼き締めは、釉薬をかけずに焼成したやきものです。
とてもシンプルに、土と火と水と、そういう根源的なものだけでできあがった器です。
焼き締めは、最初の頃は、土肌が「ざらざら」としています。使うほどに、しっとりと、つややかに育っていきます。その変化の具合は、最初の頃の手の感触を忘れるほど、「つるつる」に滑らかになるのです。土の器の経年の変化は触ってみればわかります。
そして、その変化は、時間の不思議さを感じさせてくれます。
器は土でできている。そして、わたしたちが口にする食べものも、土から生まれているのです。土からできた野菜を土の器で食べる。
そして器は日々育っていきます。土の器と暮すことは土と暮らすことなのです。
土のおおらかさ、懐の深さを、手から感じることなのです。

 

器のかたち

器のかたちは「無理がない」のがいいのです。
器は食べる道具ですから、人間の手に負担がかからず、ゆるやかな自然の丸みや、安心できるかたちをしているのがよい器です。
作り手が自分の表現のためにデザインしたような器は、最初のうちは新鮮でおもしろく感じられるのですが、長く付き合うには飽きてしまったり、疲れてしまったりします。
「なんでもないもの」がいいのはそのためです。むしろ、水を飲む、ごはんを食べる、というときに、誰もが自然に手が伸びる、というものが、器の価値のひとつです。
どこにでもあるような「ふつうのかたち」をした器が長く使われて愛される器になるのです。ゆるやかな丸みを帯びた碗のかたち、食べものを美味しく見せる皿のかたち、盛るものを受け止める鉢のかたち、そして手に包みほっとする湯呑みのかたち。
どのかたちも、人間の手に使いやすくあるように、寄り添うやさしいかたちをしています。器とは使われてこそ生きてくる家いちばんの「働きもの」なのです。

三島と文様

三島は三島手とも言われます。 文様のある器です。 木片で傷をつけ、そこに、粉引を作るのと同じ「白い化粧土」をかけ、
そのあと、ぬぐいます。すると、木片で傷をつけたところにだけ文様が残ります。
三島は、日本の隣の国・朝鮮で生まれた手法です。
線彫りや花印など、文様はさまざまです。
同じ作り手の作品でも、その文様の付け方で、ずいぶん印象が変わります。
土の色と、白い文様のバランスが美しく、食材の色を引き立てます。
古いやきもので現存している三島はどれもしっとりとして誇らしい顔をしています。それは、おそらく、使われて使われて、人の手に愛された器の顔です。使われて育った器は見事に誇らしい顔をしているのです。
文様の部分は、はじめは「ざらつき」がありますが、使うたびに、しっとりとした手ざわりに変わります。経年の変化で「器が育つ」ことを実感し、愉しめる器のひとつです。

染付

染付とは絵付の一種で、天然の鉱物・コバルトの顔料で上絵をしたものです。
絵を描くときには、色は青くありません。茶色をしています。
それが、窯のなかで、火と反応して青色に変化するのです。
「青」の色も、顔料の成分の配合や、釉、焼成によって微妙に変わります。大変デリケートな器のひとつです。
文様は、自然の花や、季節の移ろい、動物たち、とさまざまです。染付の絵は、大げさなものではなく、人が花鳥風月を和歌に詠むのと同じように、自然のなかに何気ない美しさを発見し、親しみをもって絵筆をとった「純粋なこころ模様」が映し出されます。器のうえに描かれた「こころの模様」が、食卓で繰り返し使われて、穏やかなこころを育んでいます。

器の裏にある表情

器は手に包まれるものですが、ふだん食べるときには、皿や鉢などはそれほど手に持つことはありません。それは器というものを「感じる」うえで大変もったいないことです。
器にはふだん目にしている顔・表の顔と同じように、裏側にも豊かな表情を持つ「顔」があります。
その顔を作っているのは、高い台と書いて、こうだいと読む、いわば器の土台のような部分です。この高台は、器のちょうど中心についていて、器の重みを支える大変重要な役割をしています。
その役割だけではなく、器のよしあしを決める大切な部分で、昔のお茶人はこの高台のつくりに細かな注文をつけたといわれています。
高台には、いくつかの種類があります。代表的なのものに、「削り高台」と「付け高台」があります。「削り高台」は轆轤を引いたあとほどよく土を乾かしてから道具で削ってつくります。対して「付け高台」は別に作ったものを器に貼り付けるものです。
とくに、削り高台は、作り手の手の調子があらわれるもので、器のみどころのひとつです。
高台はふだん使うときには、後ろを向いていますが、器を洗ったり、拭いたりするときに、目にします。使っている器の裏にある、もうひとつの顔を知り、注目し、その自由な姿を愉しむことは、器との付き合いをより深くしてくれるものです。

器のヒビ

器に細かく入ってくるヒビを貫入(かんにゅう)と言います。
素地と釉薬の収縮率の違いで生まれてくる表情ですが、このヒビはいわば、使われた器に降り積もる「時の重み」、勲章のようなものです。
その入り方を、親しみを持って見つめてみましょう。
日本の文化である茶陶の世界では、この貫入を、器の風情として尊び、手のなかでくり返し茶碗を愛でて、お客人とともに過ごす時間を一期一会ととらえ、名残を惜しみました。
茶陶が日本に広く広まったのは戦国時代です。明日命を失うかもしれない戦いに臨む武士に、刀を置き、身ひとつで「一杯の茶をいただく」。
一期一会の「時」が、いまも、同じように器に刻まれる。時とは一期一会。二度とあらわれないものです。そのかけがえのない「時」を、器は土肌に刻んでいます。
器は、器というかたちをした「時間」そのものです。それをもっと目に見えるものが、器のヒビ、貫入です。そう思って改めて器を眺めてみると、その愛しさがより強く感じられます。

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